
オープニングの日、開場の1時間以上前から宮殿の前に行列ができ、オープン後も列は伸び続けて宮殿をぐるりと一周するようなことになりました。ヴェネツィア・ビエンナーレでもなかなか見られない光景だと、話題になっています。イタリアや、世界の様々な場所から展示のためにヴェニスまで来て、長時間待っていただいたファンのみなさんに、まずメッセージをいただければ。
ベンボ宮という建築自体が、ヴェネツィアの歴史を物語っているような場所で……。ここは伝統的なデザインで、クラシックなんだけど、古いわけじゃないんだよね。そこに、日本のマンガという、まだ「美術」と言っていいのか分からない、若い、新しい文化が展示されていて。個人的には、この場所と作品がマッチしてるように感じられて、そこにすごく感動しました。
ヴェネツィアという場所は、他民族に追い詰められて作られていった歴史がある、と聞いたことがあります。西洋や東洋や、いろんな文化が入り混じる。融合している地点。絵画や彫刻や、広くアートの芸術祭が開催されることに、意味がある場所なんだと思いますね。
ドゥカーレ宮のほうから運河を入って、この場所に来る。そうしたことも感慨深いですね。ヴェネツィアを舞台にした『ジョジョの奇妙な冒険』第5部のタイトルは「黄金の風」だしね。まさに今日は天気もいいし、歩いていて、本当に黄金の風だな、と思いました。

あなたは期間限定のポップアップ展示のゲストとしてではなく、世界でもっともメジャーな現代美術の舞台であるヴェネツィア・ビエンナーレの作家として、ここにいらっしゃいました。マンガはついにコミックブックのページを飛び出し、この重要な美術空間に場所を持ちました。あなたにとって、そのことはどんな意味を持ちますか?
マンガは、紙に印刷されて、本として読むのが本来なんですが。そこからアニメになったり、映画になったり、ゲームになったりする。なので、僕は「基本形」のようなものを描いていると思うんです。それがこのアートプリントの展示では、サンフランシスコのギャラリーで展示したり、京都のお寺で展示したり、ヴェネツィア・ビエンナーレで展示したりする。新しい可能性を、今、たどっているのかな、と。そこに関われて光栄だな、と思います。そして『ジョジョの奇妙な冒険』が始まってまもなく40年なんですけど、40年かけて海を渡ってヴェネツィアにきたのかな、とも思います。
あなたのマンガに登場するヴェネツィアは、単なる背景ではありません。それは、劇場と、退廃と、ミステリーと、精神性のあいだに横たわるひとつの都市のようです。初めてヴェネツィアにいらっしゃったのはいつですか? またそのとき、どんな印象を受けましたか。
初めてベネツィアに来たのは、たぶん1987年でした。その時は、何もかも新鮮だった。すごい、すごい、すばらしい!って。何度も来たくなるような魅力があって。普遍性があり、新しくて、人間の生活と密着している。マンガにもそういう気持ちを取り入れたいな、と思いました。
イカ墨のパスタって、本当に真っ黒なんだよね。衝撃ですよ。日本人からすると奇妙な色の食べ物にトライしていく。でも、食べるとやっぱりおいしい。そこに集約されている気がします。イカ墨のパスタを発明した人も、いま作り続けている人も、素晴らしい。ヴェネツィアのいろんな文化で、こういう発明と継続が、積み重なっているんじゃないかな。
海の上に、この街、この都市が建っているというのが、すごいよね。未来ファンタジーのようだけど、リアリティがあって、経済や政治体制が自然に生まれてるような感じもある。地球の、人間の営みな気がします。
朝、海や運河を見ながら、運河に照り返した陽の光を浴びながら、朝食を食べる。そのイメージがすごいんだよね。イカ墨黒いし、朝日は運河だし。おかしくて変なファンタジーなリアリティだよね。

「黄金の風」で、ヴェネツィアは、絵葉書でよくみるような都市とはまったく異なる都市として描かれます。駅、運河、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会、水上の孤立した場所……。あなたがこの街で、本当に求めていたものは何なのでしょう?
求めてたのは、やっぱり文明の中にいる人間じゃないかな。最初は洞窟に絵を描いたり、骨を削ったりしていたのが、人間の文明が進んできて、こういう海の中に都市を作るようになった。でもそこの中にも、やはり人間の営みがある。『ジョジョ』の場合は、サスペンスとかミステリーみたいな物語になるんだけど、ミステリーには「人間の謎の部分を追っていく」という要素もあるので。それをエンターテインメントとして描きたいな、と。
ヴェネツィアに、思い出深い場所はありますか?
いろいろあるけど、やっぱりこの運河でしょうね。運河をみながらの風景なのかな。ヴェネツィアは、人工物なんだけど、できるべくしてできている雰囲気があるよね。いろんな建物でも、自己顕示欲からできているというより、防御のためとか経済のためとか、そういう理由でできている気がする。人って、何か見せびらかしたいとか、誇りたいとかっていう気持ちがあるじゃないですか。そういうのではないんだよ。敵味方が分かれて戦う時の防御とか、経済発展するための流通、インフラとか、病気から身を守るとか。そういうことが考えられながらできている街な気がするんだよね。道もね、迷路のようなんだけど、慣れると近道を見つけたりして、いろんな場所にほぼ直線で行けるんですよね。すごく考えられていると思う。
ヴェネツィアという都市のエッセンスを凝縮しているような場所があれば教えてください。
ドゥカーレ宮殿のあたりかなぁ。サンマルコ広場から見たあとのあたりが印象的ですね。昔、税関があったとか聞きましたけど。対岸のプンタ・デラ・ドガーナには、安藤忠雄さんがリノベーションを手がけた美術館があるんですよね。あの辺りの風景が好きですね。

イタリア美術への愛を、特にミケランジェロについて、よく話されています。有名な「ジョジョのポーズ」も、その魅力から生まれているように思えます。イタリアは、あなたの人体表現の手法に、どのような影響を与えたのでしょう?
ねじっているというか、回転している。ポージングでいうと、普通に立ってなくて、ねじれているんですよね。そのひねり。写真でみると、ちょっと違う。実物をみると、やっぱりすごくて。さらに何回も見てると、違うすごさが見えてくる。ミケランジェロはね、体重なんだよ。説明するのが難しいんだけど、関節とかがグンって、少し落ちている。他の作家にも、ねじっている作品はいっぱいあるんだけど、体重をかけているのはミケランジェロとロダンなんだよね。だからロダンはミケランジェロから影響を受けている彫刻家だと思います。
ミケランジェロの最後の彫刻(「ロンダーニのピエタ」ミラノ・スフォルツェスコ城美術館)は、未完成なんですけど、その体重のところが、すごい。崩れ落ちるようなキリストの、膝のあたりの様子とか。半分くらいしかできていないように見えるけど、ミケランジェロは、掘りかけで「もういい、完成」って思ったのかもしれない。
とにかくね、体重がズン、ってかかる。それは地球の重さであり‥…、たぶん、人生の重さなんだよ。運命の重さ、とか。人間は重力から逃れられないということも関わるだろうし。時間や重力など、それが表現に集約されていくようなものを深く感じますね。すばらしいと思います。

あなたが最も尊敬するアーティストは誰ですか? 美術史上の作家でも、現代美術の作家でも構いません。
ベラスケスが好きですね。適当に塗っているようていて、すごくかっこいいっていう。なんとも言えない良さ。もちろんミケランジェロやダヴィンチも。そういう、世界中の、定番中の定番中の定番のアーティストを尊敬していますね。
現代作家、日本だと山口晃先生とか。ヴェネツィアの空からの絵、描いてほしいんだよね。
ルッカでのトークイベントで、好きなイタリアの芸術として「ローマ時代とルネサンス芸術」を。現代では、ジョルジョ・モランディをあげられていて、少し意外な気がしました。落ち着いた静物画で知られる作家ですが、彼もイタリアの作家です。モランディの作品のどうしたところがお好きですか?
モランディは、落ち着いているところがいいよね。レンガ色で。構図も、気を遣っていないようでいて、ちゃんと計算されている。静かで、音が無いようなところが好きですね。あの茶色と白の中間とか、そういう色の微妙なところだけで塗っていくんですよ。潔いな、と。ああいう絵、本当は描きたいけれど、『ジョジョ』の場合は読者のことを考えるので……。ほわって描いたら、なにか言われそうな気がしてなかなか描けないんですよね。でもいつかはああいう色合いの『ジョジョ』の絵を描きたいと思っています。

はじめて、リトグラフを描かれました。消しゴムを使えない、左右反転して描かないといけない、というのは初めてだったのではないかと思います。それは、どんな体験でしたか? 鏡を使うなど、工夫はされたのでしょうか?
左右逆に、鏡像で描くことを意識しないといけないんですが、やっぱり勢いもないとね、描けないんですよ。一発で描かないと。線が、迷っているとダメになる。だから、鏡を使ったりとかは特にしていないです。左右対称を意識して、想像して描く。ジョジョはアクセサリーが複雑なので、考えが追いつかなくて、位置が左右で間違っている部分もあるんですが、それもいいかなって。ふだんペンで描くときよりも、もうここ行くぞ、って感じでした。
展示されている作品は、単なる商業的な複製ではありません。研ぎ澄まされた日本の職人的な技術と、卓越した最新のテクノロジーを融合して作られたプリント作品です。作品の物質性は、どのくらい重要なのでしょう? 紙やインク、それらのテクスチャー(質感)は、描かれたイメージの意味を高めることができますか?
画材、紙やインクなどは、ちゃんとしていたほうがいいと思います。十年、二十年後に見た時に、違いはあるんじゃないかな。百年、二百年後だと、作家が描いたときの気持ちが消えてしまっている部分も出てくるのかな、とは思うけれど。
だから理想は、本当はフレスコ画なんだよね。あれがいちばん普遍的で、絵が残る、と聞いたことがある。でも、実はマンガの色の塗り方って、フレスコ画に近いんですよ。一発で描かないといけない。塗り重ねれば塗り重ねるほど、ムラになるし、変な色になっていく。特に肌色など、曲面のところは、一発でいかないといけない。肌のつるっとした質感がでなくなる。紙に描いていますけど、フレスコ画を描いているみたいだなぁ、と思いながら描いています。だからイタリアでフレスコ画をみると「この作家も、ここは一気にいってるなぁ」とか、そういうことを感じますね。
あなたは、ルーブル美術館や東京国立新美術館のような場所で、はじめて作品が展示されたコミックアーティストのひとりです。マンガが変化し、こうした美術館で展示されるようになったのでしょうか? それとも、アートワールドのマンガの見方そのものが変化したのでしょうか?
やはりマンガは、発展していくものだと思います。マンガを媒体として、ゲームになったり、デジタル化されたり、新しいものが開拓されていく。美術館での展示も、肉眼で壁に展示された絵を見るというところに、印刷された本とは違う魅力、新しさがあると思うし。
2000年くらいがひとつの境目でしょうか。日本のマンガって、縦書きで右から左に読んでいく「右開き」の表現なんです。1980年代に『ジョジョの奇妙な冒険』をヨーロッパで出版するときに、絵を左右反転して「左開き」の本にしないとダメだって言われた。欧文は左から右にしか読まないから、右開きの日本のマンガなんて誰も読まない、って。でも反転すると、やっぱり本物の絵じゃないんだよね。描いた自分も気持ち悪い。描き文字も、現地の言葉に描きなおしていて、マンガ家たちは「なんか嫌だ」って言ってたんだよね。それが2000年代くらいから変わった。発展していく途中で、左右反転が良しと思い込まれていた時代もあったけれど、やっぱりみんなは「そのもの」を見たかった。きっとそれと同じ感覚で、マンガそのものを美術館で見てもいいんじゃないかとなった。できあがったアートの世界にマンガを持ち込んだというより、マンガの世界の人たちが新しいものごとを開拓しているんだと思います。
一般の人々はもちろん、若い現代美術の作家も、西洋美術を学ぶよりも、アニメやマンガとともに育っています。マンガは21世紀の美術の、中心的な言語のひとつになったと思いますか?
なりつつあるんじゃないでしょうか。そういうふうに思って、今、描いてますね。
昔は「最終的に印刷されるものだから、原画はどんな状態でもいい」ってマンガ家も多かったと思うんです。マジックみたいなもので色を塗ったり、コピー用紙に描いたり、端っこのほうに落がきしてたり。でも原画自体が残っていくものだと考えると、手間がかかってもちゃんと描きたいって思いますね。
ヴェネツィア・ビエンナーレは、いつも論争を巻き起こします。アートマーケット、多様性、地政学など……。あなたはこうした論争に興味を持っていますか? それとも距離を感じていますか?
新しい概念を提示したり、芸術を展示すれば論争になるのだから、論争はいいと思います。そうして提示されたもの全部を信じるわけじゃないけれど、興味はありますね。いろんな見方があっていいし、論争はあったほうがいいと思います。
マンガは常に大衆と直接的な関係を持ってきました。一方でコンテンポラリーアートのシステムは、エリート主義的だと捉えられがちです。コンテンポラリーアートが大衆とより直接的な関係性を取り戻すことに、マンガが貢献できると思いますか?
コンテンポラリーアートでは、すごい権威のある人がいて、その人が操っているんじゃないか、裏に陰謀があるんじゃないかってイメージが僕にはあるんですが……。マンガはやはり、読者が決めるというか、特定の誰かにあまり左右されない。お金持ちのパトロンに気に入られたからいい場所で展示できるとか、そういう部分が少ない。流行に流されるとかあるかもしれないけれど、一部の芸術好きの人に決められるよりも、発展する可能性が大きいと思っています。

ベニスはまさに、ウーゴ・プラットが海洋冒険コミック『コルト・マルテーゼ』で描いた街です。ウーゴは、愛を再発見と冒険への渇望を探し求めた作家でした。あなた自身は、コミックスは「描かれた小説(drawn literature)」であるという考え方に共感しますか?
そうかもしれないけれども、小説は言葉のイメージがやっぱり重要ですよね。絵はそのままダイレクトに行くので。だから違う芸術のようにも思う。例えばシャーロック・ホームズとか、文章からだけで、あの時代が思い浮かべられるもんね。英国の退廃とか、レンガの街を走りまわるような雰囲気とか。だから、ちょっと違うものだとは思います。
イタリアのファッションはあなたの作品に多く取り上げられています。ヴェルサーチ、アルマーニ、グッチ……。ファッションは、あなたの人生や作品において、どんな役割をはたしているのでしょう?
『ジョジョ』では、そのファッションをまとったときに、その性格の人物になるように描いています。この服を着ているのはこのキャラクター、というか。デザインであり、シンボルなんですよね。だから例えば海に潜るときも、その服を脱がないんですよ。暑くても寒くても同じ服。特別に着替えるときもあるけれど、髪型も、基本的に同じ。キャラクターを考えたうえで服を着せる、という順番ではなくて、服からキャラクターを作ることもあるし、スタンドを考えてから人物を考えることもある。ぜんぶをリンクして考えています。
ファッションの中でもイタリアのファッションは、ちょっと違うんだよね。他の国のファッションは、エレガントでも、それだけだったりすることもあるんだけど、イタリアは変なものが混じっていたりする。それがいい。アートなんだろうね。
『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』では、ルチオ・フルチの「サンゲリア」(1979)がとりあげられています。「イタリアらしさ」を感じるシーンはありますか?
カタコンベとか、教会の地下とか、ああいう世界観なんじゃないですかね。聖なる教会に、骸骨とか、身体の一部が祀ってあったりする。生と死で、死を隠そうとせずに、あえて考える。ルチオ・フルチは、イタリア人そのものように思います。
__あなたの作品に登場するキャラクターたちは、常に何かを探し求めています。力、真実、アイデンティティー、救済。あなた自身は、アートやドローイングを通じて、探求し続けているものは何ですか?
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いつも描いているのは、やはり人間の、その人のキャラクターで。何かを目的に生きていたり、目的がないように生きていたりするんだけど。そういう者たちの激突、ですよね。誰かと誰かが出会ったら、戦いがある。愛も戦いだし、ラブコメだって戦いなんですよね。そうしたなかで、前に前に進んで行こうとする。でも、深く追求しようとする前に、とりあえず描いてみることもある。何気なく描いたことがいいな、とか、マンガから逆に教えてもらうこともある。何か思ったから描くんじゃなくて、描いてみたものから学ぶ。いろいろあるんだよね。
ヴェネツィア、サンフランシスコ、京都、東京での展示の様子を収めた作品集
荒木飛呂彦『JoJo’s Bizarre Adventure manga art exhibition / 2025-2026』
8月24日(月)11:00 本サイトで注文受付開始。
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